『SDM』 VOL.21
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締切り地獄で眠れない!工藤:それには何か理由があったんですか?原田:もともと最初はノリで作った部分もあって……もちろん苦労はしたけどね。それで、生徒達に見せようと思って、当時自分が教えてたレッスンに持って行ったら、すごい反響があって。さらに、生徒以外のダンサーからも「次の号も期待してます!」なんて言われちゃって、これはやらなアカンと。工藤:周りの期待の声が後押ししたんですね。「DANCE DELIGHT MAGAZINE」編集長であり、『DANCE DELIGHT』の生みの親。古くから日本のストリートダンスシーンの発展を〝イベントオーガナイザー〟、〝ダンス専門誌編集〟という2つの立場で支え続け、世界のダンスシーンとの架け橋として活躍している。株式会社ADHIP社長。DANCE DELIGHT MAGAZINE創刊200号記念スペシャル・インタビューダンス雑誌の草分けとして知られる「DANCEDELIGHT MAGAZINE(以下略:DDM)」が、ついに創刊200号を達成! メディアという立場で日本のストリートダンスを古くから盛りあげてきたこれまでの道のりを、SDM編集長、そして『DANCEDELIGHT』生みの親でもあるMACHINE原田こと、原田充啓氏に語ってもらった! たったひとりの編集部工藤:創刊200号おめでとうございます! さっそくですが、DDMはどのような経緯で創刊されたのですか?原田:『OSAKA DANCE DELIGHT』が92年に始まって、そのグランドチャンピオン大会を94年に開催したんだけど、その時にカリーフとピーター・ポールっていうダンサーをNYから呼んでね。それがすごく注目を浴びて、「こんなことがあった」というのを残したくて始めたのがきっかけです。工藤:やっぱり最初は編集部の人数は少なかったんですか?原田:いやいや、編集部なんてものはなかったよ。全部自分1人でつくりはじめたから。編集もライターもカメラマンもデザイナーも、全部自分ひとりでやってましたよ。工藤:全部ひとりで!? 何か、原田さんほどの人がイベントの取材に行って写真撮って、ライターもやるのって、今では想像できないですね……。原田:そりゃさすがに今はやらない(笑)。でも、ほんと昔は、よそのイベントの取材でチッタに入って、最前列で他のカメラマンと一緒に写真撮ったりしてたね。工藤:そんな時代があったんですね……。どれぐらい1人で作ってたんですか?原田:ん〜、2年くらいかな? でも、実はもともとそんなに続ける気持ちなんかなかったんだよね。SDM編集長工藤光昭DANCE DELIGHT MAGAZINE編集長原田充啓a.k.a MACHINE創刊号記念すべき創刊号は1994年4月、初のストリートダンス専門誌の「Demo版」として発刊された。第2号から月刊誌として正式スタート! 当時は海外のダンサーが数多く表紙を飾っていた。そして200号が発刊! 表紙は『TOKYODANCE DELIGHT』、『OSAKA DANCE DELIGHT』それぞれの覇者だ。DANCE DELIGHT MAGAZINEVOL.1&2&200 COVER続けることへの信念。PROFILE(1994年4月)(1994年5月)第200号(2011年12月)第2号29

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