『SDM』 VOL.33
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ダンスシーンが存在しない時代!?―日本のストリートダンスシーンは60年代から始まったと聞いたことがあるのですが、当時はどのような時代だったのですか?江守:そもそも60年代は今のような〝ダンスシーン〟なんてものは存在してませんでした。ダンスは沢山ある遊びのツールの1つで、決まり事も何もない時代。ダンスが好きな人や上手な人が新しいステップを編み出して、かっこいいステップだったら周りの連中もそれを覚え出す。「こんなステップ知らないだろ!」って見せ合う、そんな楽しみ方があった時代でしたね。―実際、ダンスの情報はどうやって入手していたんですか?江守:今みたいにネットも発達してないから、自分の目で見るしかなかったです。その中でも大きな情報源が、アメリカから日本に来ていた米兵でした。当時、ベトナム戦争のまっただ中で、アメリカの才能豊かなダンサーや音楽に詳しい若者も、徴兵で日本の米軍基地を中継地として戦地に赴いていました。その米軍の若い兵士たちは週末になると街の盛り場に遊びに繰り出してくる。そこで僕は彼らと親交を深め、彼らが踊る姿を見て、そのダンスを自分のものにしていきました。―そこで踊られていたのが〝ソウルダンス〟だったんですね!江守:そうです。このソウルダンスを手本にして、時代時代の音楽に合わせてさまざまなスタイルが枝葉のように広がっていきました。例えば当時はジェームス・ブラウンが新曲を出したとしたら、「この曲かっこいい! 踊るならこのステップがいいよね!」と、そういったダンスが出来る。その中で、結果的に優れているもの、多くの人が踊りたいと思ったものが広がって、それがベーシックとなっていったのです。ダンスの名前が地域で違う!―なるほど……。ではそのソウルダンスから、ロッキンが生まれていったワケなんですね! OHJI:でも当時は〝ロッキン〟なんて名前はなかったんですよ。僕がダンスを始めた時は江守さんが名付けた〝ファンキーフルーツ〟という名前で全国的に踊られていました。なぜか九州だけは〝ブレイク〟という名前で踊られていたんですけどね。――ロッキンが〝ブレイク〟と呼ばれていたんですか!? OHJI:そうです。そういった、それぞれがロッキンを別々の名前で呼んでいた混沌としていた状況の中、トニー※1が九州に移住して来るんです。そしてトニーからYOSHIBOW※2さんを中心とした九州のダンサー達に「あのダンスはロッキンって言うのか!」というように正確な情報が徐々に広がっていったんですよ。江守:元々、名前なんていい加減なものなんですよ。人に伝えるために便宜的にとりあえずの名前をつけたりしていたから、OHJIの言うように地域によっても異なったりしていましたしね。ロッキンを創り出したドン・キャンベル※3でさえ、当初は「君達のダンスは何て言うんだ?」って聞かれたら「こういう風に動きをロックするダンスなんだ!」って応えていたぐらいですからね。OHJI:名前もそうですけど、ロッキンにしてもフォンキーフルーツにしても、全く新しいダンスなんてないんですよ。昔のソウルステップが元になっていたり、そのいくつかを組み合わせた動きが多くの人を魅了する動きになったりして。だから僕としては、そういった元となった動きというか、先なぜルーツを学ぶのか?取材・文=長濱佳孝 text by Yoshitaka Nagahama写真=上石了一 photography by Ryouichi Ageishi協力=boogiezone utopia知られざるストリートダンスの真実を紐解く人気企画が復活!『Legend NEXT』でゲストプログラム「ROOTS of STREETDANCE」(3部作)を出展する、日本のストリートダンスシーンの草分け、江守藹氏とOHJI。この2人に、その歴史とルーツを学ぶことについて語り合ってもらった!ストリートダンス史概論特別編PROFILE:1974年に日本最初のプロダンスチーム「NESY GANG」を結成した、日本のストリートダンス創成期のダンサーのひとり。現在では、イラストレーターとしてソウルフルな画風で高い評価を得ている他、音楽&店舗プロデューサー、DJ、作家、社団法人日本ストリートダンス教育研究所代表理事など、マルチな活動を行なっている。日本女子体育大学舞踊学専攻・非常勤講師。著書:「アメリカ南部を聴く/ソウルフルトリップ」「黒く踊れ!/ストリートダンサーズ列伝」江守藹54

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