『SDM』 VOL.49
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圧倒的悲劇と、洗練された悲しみ。生きることは素晴らしく、生かされていることはありがたい。◆ ◆ ◆◆ ◆ ◆◆ ◆ ◆ 物語が後半に突入すると、主人公は恋愛し、結婚を迎える。しかし、順風満帆に思える主人公たちに忍び寄る戦争の足音……。MMの代表作と知られる「No War」は主人公夫妻を突如襲う悲劇のシーンとして描かれる。 もともとが別の5分間程の作品として創られたものではあるが、物語の1シーンとして違和感なく展開されるのは、脚本の手腕の高さゆえと言えるだろう。 また、「No War」のシーンは、公演中で唯一MM以外のメンバーがダンサーとして出演している。少人数により洗練されたパフォーマンスが披露される他のシーンとの対比もあり、大人数による統率されたパフォーマンスがより一層の迫力を来場者に届ける。 加えて、まるでコンテストに挑むかのような出演者たちの気迫のこもった表情とパフォーマンスは、〝戦争の悲惨さ〞を伝えるのに十分すぎるほどの鬼気迫ったものを感じさせた。 そして、戦争で失われた最愛の夫の命、主人公が悲しみに暮れる葬列のシーンは、もう1つのMMの代表作である「Requi-em」。続けざまに代表作が披露されるこのシーンの流れは、来場者にとっては非常に贅沢な内容である反面、公演として「強烈な表現力を持つ作品を立て続けに披露する」ほど重要であったと言えるだろう。 大人数による迫力のパフォーマンスの後に展開される、MMのメンバーだけで披露される研ぎ澄まされたパフォーマンスは、主人公の悲しみを鮮烈に浮き彫りにする。「悲しみを受入れて強く生きる」という思いが込められた原作ではあるが、この公演のこのシーンで展開されるにあたり、「悲しみに堪え、強く生きようとする」という表現の微調整がされているように感じられた。  主人公が悲しみに堪えられたのは、愛する娘がそばにいるからか……、しかし物語もクライマックスにさしかかると、娘も嫁ぎ、自分の元を離れてしまう。愛する夫を戦争という悲劇で亡くし、娘も独り立ちした今、主人公の胸に去来する想いは何なのか?  そこで展開される主人公のソロダンスは、この公演の真の山場、圧巻とも言える表現力で展開される。 ともすれば〝寂しさ〞や〝悲しさ〞を表現するシーンが想像される中、繰り広げられるのは、〝喜び〞に満ちたソロダンス。翼が生えたかのように軽やかに、縦横無尽にステージを舞い踊る主人公からは、悲しみは一切感じられない。 そこから感じられるのは、人生への喜び、生かされていることへの感謝。このシーンに至るまでの公演の全てのシーンの表現は、このソロダンスに集約される。ダンサーとして、表現者としてのKAORIaliveの真骨頂が垣間見える、この公演でもっとも特筆すべき身体表現だ。 続く主人公の回想シーンは、研ぎ澄まされた身体表現とは打って変わって、映像と巧みな融合を果たした意欲的な表現。 舞台奥に投影される映像と、舞台上の主人公によってできた〝主人公の影〞が活き活きと重なり合い、それまで舞台上で展開されてきたシーン、つまり主人公の人生が振り返られていく。 楽しさも苦しさも、嬉しさも悲しさも、全て自分の人生だったという喜びを携えたまま、主人公は夫が初めてプレゼントしてくれた花、ガーベラの畑を軽やかに駆けていく……。 人生の各時代を具体的に表現し、生命たる〝GIFT〞や現在の主人公の現在を象徴的に描写するその演出で、現実とファンタジーが混在したかのような世界観で来場者の心を掴む。 確かな身体表現と巧みな演出、そして強い想いをもって「生きること、それは生かされ、繋ぐこと」という温かくも力強いメッセージを伝えてくれた。唯一のMM以外のダンサーたちが登場する「No War」のシーンは公演の山場と言えるだろう。「No War」は、主人公夫妻が戦争によって引き離される悲劇のシーンとして描かれる。戦禍に巻き込まれていく夫のシーンは、「Requiem」の冒頭シーンをリメイク。「Requiem」が表すのは、夫と別れを描く葬列のシーン。落ちてくる潰されたギフトボックスは、戦争によって失われた命たちを表している。公演のクライマックスは、KAORIaliveによる魂のインプロビゼーション!人生を振り返る主人公、そこには最愛の夫の姿とガーベラ畑が……。物語の要所で登場する老婆こそが、自身の一生を振り返っている主人公なのだ。61

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