『SDM』 VOL.54
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―創業20周年おめでとうございます! ダンサー時代から20年間ご自身で作り上げてこられた事業ですが、スクール経営とはどんなお仕事だとお考えですか!? そうですね、スタジオ名であるLandin’には「踊り場」の他に、「着陸」とか「上陸」といった意味もあるのですが、まさにこれからダンスフィールドに上陸しようとしている初心者の入り口部分を担当するお仕事ですよね。 だからまったくダンスが初めてという方達にとっては、そのファーストタッチがどういったものになるかが、人生の分かれ道と言っても過言ではないので、弊社スタッフはレッスン前後も含めた適切なケアを心がけております。初めてスクールに来た時は内気でおとなしかった子が、ダンスを通じて明るく活発になったり、レッスンを通じて友達が増えたり、もっと大きな世界にデビューしていったり、いい意味でどんどん人生が変わっていく様子を温かく見守れる職場でもあります。―その考え方は創業当初からあったのですか!? いやいや、最初はもちろん手探りからのスタートでしたよ。まだ創業して間もない頃に、「TAIZOさんがやられてること(スクールを運営していること)は、エネルギーの有り余っている若者たちを、誤った方向に進ませることなく導いてあげて、世の中に貢献されていますね」と言われたことがあったんです。今まで好き勝手に踊ってきた若造が「社会に貢献してる」なんて、思ったことも言われたこともなかったから嬉しかったですし、弊社の経営理念である「多摩地区の皆様に良質のダンスを提供し、ダンスを通じて皆様の人生をより豊かなものに」のベースはここから始まったと思います。―そんなTAIZOさんご自身がダンスを始めたのはどういったキッカケだったのですか!? 僕は九州の博多出身でして、15才の時に当時ZOOがやってた「DADA」っていうテレビ番組の影響でダンスを始めました。20〜30年前の博多は東京や大阪のダンサー達が学びに来るほどストリートダンスが盛んな地域だったので、そういった地元の先輩方から受けた影響は大きかったですし、もし盛んじゃない地域で生まれ育っていたとしたら、そんなに技術も経験も得られなかったでしょうね。そういった環境のおかげもあって、18〜19才の頃には九州のダンスコンテストでソロでもチーだったんですけど、改めて東京のシーンを見渡してみると、同世代で同キャリアくらいの若手ダンサー達も結構レッスンやってたので「じゃあ僕がやっても大丈夫かな?」という感じで始めました。 でもお金を頂いてレッスンやる以上、ウソの技術は教えられませんから、今の自分の技術や認識で合ってるのか、基本の確認がてら各ジャンルの大御所先輩方に習いにいったりしてましたね。―当時はどうやって生徒さんを集めていたのでしょうか!? 96年当時は今みたいにダンススクールが無い時代でしたから、一線で活躍してるダンサー達でも、どこかのスタジオを借りて自営でレッスンやってるような状況だったんですよ。 まだダンスの専門誌も無かったですから、ストリート系のファッション誌なんかでダンサー特集記事に載ったりする際に、自分のやってるレッスン情報も出してもらう訳です。携帯電話もインターネットも普及する前で、ホームページとかメールアドレスも存在しませんから、自営でレッスンやってる以上は問い合わせ先として自宅の電話番号を載せなきゃいけないんで多摩地区初のヒップホップスクール開講ダンスを通じて人生をより豊かなものに1974年福岡県福岡市生まれ。15才の時にTV番組の影響を受け独学でダンスを始める。その後は九州規模のダンスコンテストで優勝入賞多数。上京後もプロダンサーとして様々なダンスイベントにゲスト出演。自身のレッスン事業を総合スクールへと拡大させ多摩地区を拠点に運営中。SpecialInterview株式会社ネームレスプロダクション 代表取締役将来、ダンススクールを経営したいダンサーのために―。ムでも優勝するくらいの経験はさせてもらいました。―その後、どのような経緯でスクールをオープンすることになったのでしょうか!? インストラクターは上京してからなんですけど、八王子に住んでた友達に「このへんスクール無いからレッスンやってくれないか?」って頼まれたのがキッカケだったんですね。 でも、博多のシーン的な感覚では「僕みたいな若手がとんでもない!」って恐縮する感じ横山 泰三取材・文=飯塚徳子text by Tokuko Iizuka写真=中島恵photography by Kei Nakashima58

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