江守 藹の ROOTS OF CULTURE ~日本のストリートダンス史~

カルチャー
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※この記事は「SDM vol.5」に掲載された記事になります。

ストリートダンス・カルチャーを日本でもっとも古くから見てきた男、江守藹。米国ブラックカルチャーのリーダーたちがリスペクトするほどの知識人であり、「BE BOP CREW」創始者、YOSHIBOWも師とあおぐほどの大御所である。その彼が次世代を担う若者たちのため、このカルチャーの活きた歴史を伝えていこう。

ストリートダンスにかかわる人たち、すべてに贈る珠玉のバイブル!

ストリートダンスのルーツとは!?

自分たちの生きているカルチャーであり、社会でありながら、「ストリートダンスのルーツとは?」。そう聞かれて、正確に答えられるダンサーは数少ないのではないだろうか⁉ 今や、飛躍的な発展を遂げ、社会的にも認められつつある、ストリートダンスシーン。そのダンス人口も増す一方だ。しかし、流行のスタイル、ファッションを追いかけ、表面上や形だけのストリートダンスを捉えている若者が多いのも否定できない現実。
いま一度、考えてみてほしい。自分たちの生きているカルチャーであり、社会であり、大きく影響されているストリートダンスのルーツ。なのに、それがあまりにも大雑把に継承されていることを。日本のストリートダンス・カルチャーが‶ストリートダンス・スタイル〟になってしまわぬよう、〝ROOTS OF CULTURE〟を読者の皆さんに継承したい。

江守 藹

PROFILE
1973年に日本最初のプロダンスチーム、ネッシー・ギャングを結成し、プロとしてのキャリアをスタート。かつての『SOUL TRAIN JAPAN』の総合プロデューサーでもある。 現在は、ソウルフルな画風のイラストレーターとして、数多くのレコードやCDカバーを制作。また、DJ、音楽&店舗プロデューサーとしてもマルチに活躍している。

日本のストリートダンス史

クラブもディスコも無い時代から、ダンスミュージックは生きていた!

1960年代後半——今のようにテレビやステレオも無い時代。
「ラジオから流れるのは、当時、大ヒットしていたビートルズやローリング・ストーンズなどのロックバンド、もしくは、演歌ばかりでした。もちろん、現在のようなクラブは無いし、気軽にブラックミュージックを聴ける機会がなかった。そんな時代に、ブラックミュージックを愛する若者たちが集っていたのが、“ゴーゴー喫茶”だったんです。生バンドでR&Bやソウルミュージックを演奏する、今でいう“ライブハウスのような店”で踊るというより、みんなリズムにノりに行く感じでしたね」。
その後1975年に、当時人気のあったファンクバンドKool & the Gangが日本に来日。コンサートを開催する。これが、日本初のダンスチームが結成されるキッカケとなったのだ。
「プロモーションの一環として、ともにステージに立つダンサーが必要と要請され、“ネッシー・ギャング”を結成したんです。これが日本最初のプロ・ダンスチームですね。でも、この“ネッシー・ギャング”はKool & the Gangのコンサートのためだけに結成したので、その後は活動しませんでしたけどね(笑)」。
その後、アメリカのテレビ番組である『SOUL TRAIN』の人気が沸騰したことで、日本にもディスコが次々とオープンし始める。
「当時、『SOUL TRAIN』ではすでにロッキンを踊っていたんですが、僕たちはその踊りがロッキンという名前すら分からなかったんですよ。勝手にファンキーフルーツって名前を付けて踊っていましたね(笑)」。この頃のダンサーたちは、ディスコでファンキーフルーツの技を競い合い、その中からさまざまな独自のスタイルが生まれていったという。
「ディスコシーンが盛りあがりをみせかけた時、僕たちの仲間でもある、ドン勝本が、“全国ディスコ協会”を設立したんです。日本で初めてのディスコ情報誌『ギャングスタ―』を発行したり、イベントの企画・運営など、ディスコシーンの発展に切磋琢磨していた時代でしたね。他にも、全国にDJを派遣して、地方のディスコに最新の音楽や情報を教えに行っていましたよ」。そんな努力の甲斐があり、流行に遅れのあった地方のディスコの普及も加速していった。

オールジャパン・ソウルトレイン・ギャング
日本のディスコ時代の先駆者たちによるダンスチーム。全国ディスコ協会の会長、ドン勝本も所属していた。

ディスコブームが到来とともに、ダンスチームが多数誕生。

ディスコシーンのブームと同時に活動を休止していた“ネッシー・ギャング”にも新たな動きがあらわれた。「全国ディスコ協会の設立とともにダンスコンテストが頻繁に開催されるようになったんですね。コンテストの決勝大会ともなれば、いろんな地方から、東京にダンサーたちがきますよね? だったら、ただダンスを競い合うだけじゃなくて、何か特別なショータイムを作りましょうっていうことで、人数を増やして再結成しました。」こうして、新生“ネッシー・ギャング・スペシャル”として誕生する。
「ちょうど同じ時期、ドン勝本が店長を勤めていた人気のディスコ、六本木エンバシーと赤坂ハーレムから選抜したダンサーで“オール・ジャパン・ソウルトレイン・ギャング”というダンスチームを結成したんですよ。当時はこの“ネッシー・ギャング”と“オール・ジャパン・ソウルトレイン・ギャング”が、ダンスコンテストなどの特別ゲストとしてショーケースを披露していましたね。ちなみに、“オール・ジャパン・ソウルトレイン・ギャング”は後に“スペースクラフト”と名前を変えて活動するんですが、そこには、坂見誠二や、TRFのSAMも所属していたんですよ」。
また、1977年に『ソウルソウルトレイン・ダンスコンテスト』が開催されたことによって、ダンサーたちが自身のチームを結成するようになる。
「とはいっても、当時のダンスシーンは今のようにクラブでダンスイベントが頻繁に行われているわけじゃないから、プロ・ダンスチーム以外のダンサーたちは、チームで踊ってそれを披露する場所が無かったんですよね。でも、やっぱり、ショーを披露してお客さんに拍手をもらうって、すごく嬉しいことじゃないですか。なので、その頃のダンサーたちは、自分たちの働くディスコで、お店のショーとして踊っていましたよ」。ダンススクールもない時代、音楽が密接になるディスコが一番ダンスを吸収できる場所だったのだろう。

ネッシー・ギャング・スペシャル
ネッシー・ギャングを経て、ネッシー・ギャング・スペシャルに。新たなメンバーが増えさらにパワーアップ。

終わりに

「ソウルミュージックが好きだった」。そこから、すべてが始まった1960年代。そしてディスコが登場した1970年代。こうした背景が創りだしたダンスシーンを知ったうえで、クラブに遊びにいくのも良いかもしれない。

CAEZER
現在のダンスシーンの大御所、YOSHIBOW とRICKYが創始したCAEZER。当時は、YOSHIBOWが働く「Radio City」というディスコで踊っていた。


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コメント

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